Boowy

Boowy

Artist, Contributor

 BOØWYは80年代の日本のロックを代表するバンドである。英国のパンク/ニューウェイヴを基礎としたシャープでキレのいいロックンロールと、実験性の強いカッティング・エッジなアレンジ、ポップで歌謡性の強いメロディ、氷室京介(vo)と布袋寅泰(g)を中心とした、グラム・ロックやニュー・ロマンティックを下敷きにしたスタイリッシュでグラマラスなヴィジュアル性、完成度の高いライヴなどで絶大な人気を誇った。いまなお人気は根強く、後進への影響は大きい。  1981年に群馬県高崎市にて氷室、布袋、松井恒松(b)を中心に結成。当初バンド名は“暴威”であった。やがて高橋まこと(ds)が加わる。当初は6人編成だったが、82年にバンド名をBOØWYに変え、アルバム『MORAL』でデビュー後に、2人が抜け前記の4人編成となった。このラインナップは解散まで不動であった。  83年にレーベルを移籍して第2作『INSTANT LOVE』をリリース。当時布袋と高橋はBOØWYと並行してAUTO-MODのメンバーとしても活動していた。  バンドはライヴのたびに動員を増やし、加速度的にシーンでの存在感を強めていく。84年になって事務所を移籍、レーベルも再度移籍。新体制となったBOØWYは、翌85年、元プラスチックスの佐久間正英のプロデュース、マイケル・ツィマリングのエンジニアで、デヴィッド・ボウイの“ベルリン三部作”の舞台となったベルリン・ハンザ・スタジオ録音による3作目『BOØWY』を発表。これが高く評価され、人気も急上昇。同作のツアーでは、それまでのライヴ・ハウス中心から渋谷公会堂などホールでのライヴに移行。これは当時ロック・バンドとしては異例の大きなライヴ展開だった。同じ年にレベッカや尾崎豊もブレイクしており、日本の音楽業界に大きな構造変化が訪れつつあったのである。  そして翌86年にリリースした4作目『JUST A HERO』は実質的な初セルフ・プロデュース作品で、サウンド面での主導権は布袋が握った。いわゆるBOØWYサウンド、布袋サウンドが完成の域に達した作品でもあった。同作はチャート5位まで上昇する大ヒットとなり、ついにBOØWYはブレイクした。以降、5作目『BEAT EMOTION』(86年)と6作目『PSYCHOPATH』(87年)はともにチャート1位となりミリオンセラー、シングル「MARIONETTE」(87年)もシングル・チャート1位を記録するなど、名実ともに日本のトップ・バンドへとのし上がる。  彼らのブレイクとともに日本の音楽業界でもロックが大きく注目されることになり、それまで歌謡曲中心だった日本の音楽ビジネスのあり方を大きく変え、いわゆる“バンド・ブーム”への呼び水ともなった(ただし先駆者の宿命で、バンド・ブームの果実を味わう前に解散している)。また中学高校の学園祭バンドのコピー対象が、それまでの洋楽中心から、邦楽バンドへと移行するようになったのもBOØWYが大きなきっかけであり、それまで日本の音楽シーンではマニアックな傍流にすぎなかったロックという音楽、ロック・バンドという形態を、メディアの力に頼らず、ライヴ活動と作品の力だけで一般層にまで認識させメインストリームへと押し上げて、その後の若い世代に道を切り開いた功績は非常に大きい。またファッション性の高い衣装や髪を逆立てたグラマラスなスタイルなど、後のヴィジュアル系バンドなどへの影響も絶大である。  ところが人気の絶頂にあった87年12月24日の渋谷公会堂でのライヴで、突然の解散を宣言。翌年88年の4月4日と5日、オープン直後だった東京ドームでの“LAST GIGS”にて活動を終了した。解散の理由はいまだに公式にアナウンスされていない。このときの実況盤『“LAST GIGS”』は、ライヴ盤としては異例の150万枚というベストセラーを記録している。  解散後は、氷室が“LAST GIGS”から3ヵ月後の88年7月にシングル「ANGEL」でソロ・デビュー。布袋はその3ヵ月後の同年10月にアルバム『GUITARHYTHM』でソロ・デビュー、吉川晃司とのCOMPLEXでも活動。高橋は元ALLERGYのヴォーカリスト宙也のバンドDe-LAXに参加、松井はセッション活動などを経て89年にソロ・アルバム『よろこびのうた』を発表した。以降、各自マイペースな活動を続けており、メンバーの存在感や影響力はいまだ衰えを見せない。  BOØWYの活動期間はわずか7年ほど。だが解散後30年以上経つのに、ライヴ盤やベスト盤が出るたびにベストセラーとなり、大きな話題にもなる。いまも再結成がもっとも待ち望まれているバンドのひとつだ。布袋は海外に拠点を移し活動の幅を広げており、氷室は2015年のツアーをもってライヴ活動を無期限停止している。